◎ まずは世界の田地としての自覚。 陰陽揃うた信心。  「高田美和」のお知らせ。。
  御取次を願ったら御取次を頂きに頂き抜かなければならない。
  神様の願いがこの地上に成就していく
  くの一修行


昭和四十四年六月五日 朝の御理解


X御理解第八十六節 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いもの  ができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がよう  なければ家がもてぬ。」


 女は世界の田地である。これは、世界の田地という、まあいうならば、世界の立て直しとでも申しましょうか、世界中の氏子の助かっていくための受け場とでも申しましょうか、その田地がようなければ、またその田地を肥やしておかなければ、良いものが出来ぬと、でここんところを私は、え~、「女は世界の田地である」と言うのでなくて、えぇ、お道の信者ね、金光様のご信者、いわゆる信者氏子ですね、そのお道の信心を頂いておる者は、私は世界の田地である自覚に立たなければならんと思うですよね。世界の、世界の田地、これは、えぇ、お道の信者信奉者がですね、世界が本当に立ち行く、本当に世界中の者が助かっていくことのために先ず、良い私共は田地であらなければならないのです。ね。拝詞の中にも、日夜祈っておるでしょう。「世界の真の平和」とか、「総氏子の助かり」とかと、それにはですね、私共信奉者が先ず助からなければ、ね、世界総氏子の立ち行きと仰るが、先ず、信心を頂いておる者が、先ず立ち行くおかげを頂かなければ、言うなら、良い手本になるような信心とおかげとを頂いていかなければ・・・・。
 そこで、その世界の田地であるところの私共、世界の田地であるところの私共が先ず、肥えておかなければならん。肥やしてこかなければならん。
「女は世界の田地」と。女と、女という字は、「くノ一」と申しますねえ。「くノ一」と書いておんなと読むわけでしょう。「くノ一」というのは修行が出来る氏子というふうに、今日のところは頂かなければいけんと思うのですね。苦は修行。ね。修行の第一番としてですたい、もうすべての例えば難儀を難儀とせずに修行と頂けれる、一番の氏子です。
 ですから、世界中の氏子の中で、お道の信心を頂いておる者がです。その修行第一と思われる私共が信者にならなければならない。同時に、女というのは産みなすもの。男は産みなすことが出来ません。ね。ですから産みなす力、産みなす働き。そういうものが私共には段々、備わって行かなければならん。ね。そういう自覚に立たなきゃいけん。

 昨夜の御祈念の御理解の中にも、昨日は松栄会でございましたが、会長であります堤清さんが昨日の朝、お知らせを頂いておりますのに、山陰線と山陽線とですね、ございます。山陰線と山陽線の、こう別れ道の所に大きな海がこうあってね、夢の中でですよ。その海に舟が一隻浮かんでおる。ところがその、海がもう非常にこう、波が高い訳です。ですからその舟が非常にこう、揺れておる訳ですね。けれども、その舟に乗らなければね、その舟に乗らなければ、その目的地へ行かれないという、お知らせであった。ね。

 山陰線、山陽線。ですから山という字ですからね、陰と陽とお互いが修行第一と心得なければならない。例えばそこにその例を取らせて頂くとですたいね、「陽の修行」「陰の修行」ね。天地の姿を陰陽の姿とも申します。そういう、いわばお月様を陰とするならば、おてんとう様を陽と頂いておりますよね。その陰陽です、陰陽の修行です。さんは山、修行。山のお知らせの時は修行という。ね。山登りのような修行ということである。そういうね例えばその、陰陽の修行がですね、私共の心に育って行かなければならない。ね。いうならば、私共の心の中に、いうならその男性的な信心と女性的な信心。いうならば、大胆な信心、繊細な信心とも、まあ言えるかもしれません。ね。

 そういう例えば信心が育っていってです、陰陽合体のところからよいものが生まれてくるのです。ね。男だけでも産むことは出来ん。女だけでも産むことは出来ません。けれども女はその産みなす田地であります。ですからその、信心の内容というものをつぶさに、例えば、信心の、その理想というのはです、私共の心の中にやはり陰陽の信心がその育っていくというか、兼ね備えていかなければいけんのですね。

 だから、各々の信心内容というものを検討してみますと、陰に強い人があり、陽に強い人があります。ですから、そこんところをですね、自分に欠けておるところを、精進して揃うた信心になってゆかなければならん。そういう信心から善いものが産れてくる。もちろん、おかげも産まれて参りましょうが、いわゆる信念が生まれてくる訳です。絶対信といわれるような信念が生まれてくるわけです。その信念なしにはですね、この舟には乗れんのです。行きたい所には、どうでも、目的地には行きたいけれども、ね、舟が揺れておる。言うならお徳の舟は揺れておる。それに乗らなければ、お徳の舟に乗って渡らなければ渡れない所がある。その舟に乗る為には、いわゆる、絶対信というようなものが生まれておらなければね、おかげも生まれてこなければ。ね。いわゆる信念の確立である。その信念が生まれてくる、いわば、信心の度胸である。そこから信心の度胸が出来る。その度胸を据えなければ、その舟には乗れない。

 先日からあの信徒会長でありますところの、平田会長が言うておられますように、「信・公・私」というようなことを言っておられますねえ。信心の信、公、私。「信・公・私」と。信心をさせて頂く者はね、こういう考え方で信心を進めてゆかなければならない。こと信心の場合はね、どのような公の事であっても、私事などは、私事とか公の事やらは、には振り返りもせずに進んでゆけれるという信心。こと神様事ならです、神様の事を第一に取らして頂けるというような信心。これなんか、やはり、信心度胸が出来なければ出来る事じゃないですよね。そういう信心にならなければ、本当の金光様の御信心ではおかげを受けられんと断言しておられますよね。私もそれをそう信じます。本当のおかげというのは、そんな中途半端なですね、この事は公の事だから、この事を捨てる訳にはいかないと、私事ならなおさらの事である。

 先日から久留米の佐田さんが、学校のPTAの方から、是非、役員にということであった。再三、断ったけれども、もう断りが出来んくらいに、頼みに見えた。それでもう、ま、そこんところのお伺いされた時に、私は、もう佐田さんの信心であるならばです、その公の事ですけれども、そのことは捨てなければいけません。信の方を取られたらいいですというて御取次さして頂いたんですけれどもね。普通からいうなら、こりゃどうでも義理にでも、その公の方を取らなければならんような場合であったですけれども、これは、まず、信の方を取るのが本当だ。もう佐田さんの信心では。と私は思うたからそういうふうに御取次さしてもらった。というようにですね、その信をとれるということなんかは、信心の度胸というかね、いよいよ信心の確立というか、信念の確立が出来ていきよらんと、それはとられんのです。いわゆる、この徳の舟に乗る為には、そこんところを例えば公の事やら、私事やらは一蹴して、進んでいくだけの勇猛心といったものがいります。

 次にその清さんが、また、頂いておられることは、ここのお広前で私が光昭、私の二番目の息子です。光昭に「光を点じよ」というておるけれども、どうしても光昭がつけておるけれども、どうしても光がつかなかった。そしたら、そんなら「清さん、あんたがつけなさい」と言われたところを頂いた。これはお広前の光である。いわゆる、お互いがそれぞれの心の中に、家の光にならなければいけん。一人の者が信心しとると、家に中が明るうなるという信心にならなければいけん。お広前でも、あの御信者さんがおられるからと、周囲が明るくなる位な光を持たなければならない。お広前が暗くするも明るくするも信者の信心の育ち方いかんにあるのです。ここのお広前に来た途中に何とは無しに有り難い。それはそういう信者の光が集まっておるからである。そういう、たとえばひとつの責任をお互いが感じ、いわば今日の世界の田地としてのですたい、世界中の中にお道の信心によって、真の平和とか、総氏子の助かりというのを願っておるのでございますから、為には、まず、お道の信奉者であるところの、又、いわゆるくノ一です。修行第一と思わして頂いておる私達が、そこんところを分かっておる私達がです、世界の田地にまずならなければいけんのです。

 それには力が必要なんです。絶対信といったようなものを、そこんところにです。例えば陰陽の信心が求められる訳です。同時に光が求められる訳です。この世は徳の舟に乗って渡らなければと。久留米の初代がいうておられますように、その徳の舟に乗ることは、そう簡単なことではない。やはり、度胸がなからなければ乗られない。いわゆる信第一、ね、信心の信。信第一という信心にならなければね、徳の舟には乗られません。私事どん先にするようでは、お徳の受けられるはずがありませんものね。そこは、皆さんよく分かっておられることであろうと思うが。そして、しかもその田地をいよいよ肥やさせていかなければなりません。田地が肥えておかなければとこういうんです。

 女は家の家老じゃ。お道の信者は世界中の家老だと自覚しなければなりません。金光様の信奉者が善うなければ、世界がもてんのだ。と、そういう自覚なんです。

 そういう自覚に立たなければ、たとえば、拝詞を奏上しても、それは神様にすらごとを唱えておるようなもんですよ。まず、私共がおかげを頂かなければ、家老が善うなければ城がもてぬ。お道の信心信奉者が本当に力を受けておかげを受けて、いよいよその田地であるところの自分の心を豊かに肥やしていくという。そこから私は世界がもてる・・・。城がもてぬという、女が善うなければ家がもてんようにです、お道の信奉者がいよいよおかげを頂いてゆかねば世界がもてぬのだ。世界の平和など及びもつかないのだ。まず、お道の信奉者が第一にここのところにおかげを頂いてゆかねばならんという、自覚に立たなければならぬ。そういうことを今日は分かって頂いて、次のお話を聞いて頂きたいと思うのです。

 今朝、私は三時半に控えに出てまいります。それでその三十分間をもう静かに御祈念をさせて頂く。御神前に出らして頂く心の準備を、いわゆる整える訳です。そのときにですね、頂きますのがね。高田美和という女優さんがおるでしょう。高田美和。高田浩吉さんの娘さんだそうですね。高い田、それに美しい和と書いてあります。高田美和。皆さんテレビをご覧になっておるから、私、髪油の宣伝の非常にリズミカルなですね、宣伝をやっておりますねえ。「つけているよ。つけてないね。いや、つけているよ。」という歌の文句のような、非常にリズミカルに、いわゆる、それほど素晴らしい髪油だということなんです。つけてないように見える。けれどもつけているよ。と、それを非常にリズミカルに流してある。それがね、ずーっと私の心耳に響いてくるのです。べたつかない訳です。最高の髪油ですから、まあ、そうでしょうねえ。つけてないように見える。けれどもつけているという訳なんです。それと高田美和ということは、どういうことであろうかと私は思うた。

 最近、最近じゃありませんですね、この御取次成就信心生活運動が、そういう運動が始まりまして、何十年になりますでしょうか。教団では、そのことを中心にして信心が進められている訳でございます。御取次成就信心生活運動と。そこで、いわゆる今度は、立教神伝の最後のところ、天地の親神様が金光大神に願うてござるその中にです、「世間になんぼうも難儀な氏子あり取次助けてやって呉れ。神も助かり、氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子。繁盛致し、末々親に掛かり、子に掛かり、あいよ、かけよで立ち行く。」いわゆる、天地の親神様の願いの焦点というか、天地の親神様の理想境というところでしょう。その天地の親神様の願いが、私共の願いにならなければならん。世界の難儀な氏子が取次ぎ助けられて、しかも、親も立ち行き、子供も立ち行く。あいよかけよで、いわゆる、神も助かり、氏子も立ち行く。神様の願いが成就し、同時に私共の願いも成就して、そこに神様の願いの世界が顕現されていくことを願いとしなければならん。それが私共、信奉者の努めでなからなければなりません。

 私だけが、おかげ頂きゃあいいというのじゃない。私がおかげを受けるということが、私が助かるということが、そのまま天地の親神様の願いが成就していきよることであり、親神様の願いが、私共氏子一人一人の上に現れてくる。いわゆる信心共栄の姿である。神様と氏子が一緒に栄えていこうというおかげ。私の栄えがそのまま天地の親神様の栄えに通じておらなければならないということなんです。こうやって頂いてまいりますと、なるほど、今日の御理解のところが分かります。女は世界の田地ということの御理解を下さったことの意味がよく分かるでしょう。世間には難儀な氏子がたくさんあるんだと。どうぞ、その金光大神の取次によって、世界の難儀な氏子を取次助けてやってくれと。こう頼んでおられる。

 昨日、午後の奉仕をさせて頂いておる時でした。末永さんがここへやってまいりましてから、いろいろ信心話をさせて頂く中に、「先生、最近私は感じますことですけれども、親先生の祈りの強烈なのには、最近はいよいよ驚いています。」とこう言うのである。私の祈りが強烈だ。と言うのです。そんなら、私が金光様に「ーー、ーー!。」というて祈る訳でもない。ただ、もうそれこそ音もしませんよね。眠っておるのかと思われる位なんです。私の母なんかは、もう、「金光様、ありがとうございます!。金光様、ありがとうございます。!」ともう周囲の人の御祈念の邪魔になるのじゃなかろうかと思う位なんです。あれはもう心の中で祈っておってもいいのです。それでも、やはり、強烈だとこう言うのです。どういうところが強烈かと。それは、もう、ここの合楽の信者、信奉者の助かっておる姿が、そのままいうならば、金光大神の祈りを私がひた受けに受けて、その取次の働きがこのような姿に現れてきておるのですから。まあ、いうならそうですね、合楽という変電所のようなもんじゃないでしょうか。電源地が御本部であり、教祖の神様であるとするならば、その電流というものを、いよいよ、もっと強烈なものにしていくという働きといったものが、ここではあっておるんだということ。

 それがどういうふうなことから、こういうこと言うのかというと、さっきもお話が出ました光昭の事です。光昭君が今頃、どうも信心がおかしいと思っておった。毎朝、私と同じくらいの時間に起きて、そして、四時になりますと、私の控えの襖を開けてくれたり、内殿の襖を開けてくれたり、私を御神前に誘導してくれたりする御用をさしてもらうんです。それがここ一・二か月位たえてしまっておった。ところが先日からまた、光昭君がどうでも親先生の四時の御神前に奉仕される時の御用は、やっぱり僕がさせてもらうということになって、今、光昭がしておるとこういうのである。

 もうこれひとえに、親先生の祈りの強烈なしるしだという訳なんです。私はそんなら光昭にそういうことではいかんぞとも言わないし、お前がしてくれたが一番良いとも言わない。

 ここの辺にですね。信心のひとつの過程というものを色々感じるのですけれども。例えば、よく福岡の吉木先生がよくお説教の中でおっしゃいましたですね。「言うてきかせて、してみせて、ほめてやらねば誰もせぬぞえ。」という、自分が言うだけじゃない、自分も実際にしなきゃ駄目だ。そして、その上に、たとえよかっても悪かっても、よう出来たと、ほめてやらなければ、みんながついちゃこないというのである。だから、そういう時代があっても良いのです。あらなければいけません。けれども、そんなら最近の私の信心というのは、もう、黙って受けて、黙って与える。ということなんです。

 これは何を物語るのかというと、自分の祈りを信じておらなければ、出来ることじゃないですよ。自分の祈りを神様が聞いて下さるという確信がなからなければ、黙って受けもされませんし、また、それを与えてゆけれるようなゆとりは出来てきませんよね。

 そこで、自分の祈りがまあだ不完全であるとか。自分の祈りに自信が持てない時に初めて、いうて聞かせたり、してみせたりしなければならん。しかも、それを例えば私共の光昭であるならばです。「光昭君、あんたが誘導してくれたが一番よかよ。また、せっかくお道の教師を志すならば、朝起きの稽古をしなければ、どうするか。お父さんもそん通りの事をしてるんだから、あんたもいっちょ頑張らにゃ駄目だ。そして、あんたが誘導してくれたが、一番都合がええ。」と、ほめたり、言うて聞かせたり、また、実際自分も行じておることですから、言えばそれは分かるかもしれません。けれどもね、私はそういうことを言うことよりも、もっともっと素晴らしいおかげが次にあることを分かってきたんです。言うことよりも、ほめてやることよりも、自分が行じることよりもですね。自分の祈りというものに、それだけ自信というものが持ててきた訳なんです。いうならば、私の願いは神様が聞いて下さるという確信、確立が出来てきた訳なんです。だから言わんでも済む訳なんです。末永さんが言うところは、そういうところではなかろうかと、自分でもそう思うのです。

 いわば、高田美和であります。高田というのは高度な、田というのは世界の田地の田、受け場です。高度な受け場が自分の心の中に出来てきた。しかも美(うるわ)しい和である。親子の仲に「こん奴がいっときばっかり頑張りよったばってん、もう、頑張りもせん。こん奴がばっかりは。」といったようなものではなくて、これを美(うるわ)しいまでの心で私が見ておる訳です。そこに、わたしと光昭との仲にいつも和というのがいつも交うておる。いうなら、お父さんは祈っておるのやら、祈ってないのやら、分からんような、いうなら、つけておるか、つけてないのか分からない髪油というのは、信心の油と頂いてもいいでしょう。

 大体親先生は私のことを願っておって下さるのだろうか。黙って御神前に座ってござるばっかり。一体私のこと願って下さっとんなさるのじゃろうか。つけておるやら、つけておらんやら分からんけれども、その心を問うたら、つけておるよ。ということになるのじゃないでしょうか。信心が限りなく高度な信心に進んでゆかなければなりません。場合には、演出もいりゃ、演技も要ります。お取次さして頂くにおいてもそうです。ほめてもやらねばならん時もありゃ、怒りもしなければならん時がある。それは演出である。演技である。また、懇々と言うてきかせなければならん時もある。

 けれども信心がですね。いわゆるつけておるか、つけておらないのか分からないような信心が出来てきだすとね。もう、そこには、言わんでも済む。美(うるわ)しいまでの和を以て、そのところが祈り祈られるところになってくるのでございます。私共がお取次を頂いて、またはお取次を願ってとこうも申します。御取次成就信心生活運動という、そういう運動が展開されて、その御取次の結果がどういうことになってこなければならないか。御取次を願ったら、御取次をですねえ。願ったことをひた受けに受けてゆかねばなりません。御取次を願って、こういうおかげを頂きます、というたら、そのおかげをですねえ、受け抜いてゆかねばならないということです。御取次を願い、御取次を願ったら、その願いが成就してくる、成就のところをです、ひた受けに受けていかなければなりません。

 為には御取次を頂きに頂きぬかにゃいけません。御取次を願うことと御取次を頂くことは違うのです。御取次を皆さんが願いをなさるでしょう。お願いをなさったら今度は御取次を頂いて帰らにゃいかんのです。皆さんの言い分を神様に願ったんですから、今度は神様の言い分を頂いて帰らなきゃいかんのです。そこが御取次を願い、御取次を頂く。そこんところにいかんとです、御取次成就信心生活運動になってこないのです。御取次を頂くということ。そこで、御取次を頂いたら御取次を頂き、ひた行じに行じぬいていかなければならんということになるですね。御取次を願わして頂いたら、その願いをどうでも頂かねばならんという信念を以ておかげを頂き抜かにゃいかん。ひた受けに受けていかねばいけん。

 次には御取次を頂いたら、頂いたことを例えば教えを頂く訳ですから、その教えをひた行じに行じ抜いていかなければ、御取次が成就もしなければです、信心生活運動にもなってこない訳なんです。そこんところをですね、取次ぎ助けてやってくれと、氏子も立ち行く、氏子あっての神、神あっての氏子、繁盛致し、末々親にかかり、子にかかり、あいよかけよで立ち行く。という働きになってこないのです。御取次を願っただけで、おかげを受けただけでは、御取次が成就とはいえない。御取次を受けて御取次を頂いて、それをひた行じに行じ抜いてゆかねばならん。そこから何が生まれてくるかというと、大繁盛のおかげが約束される訳です。いうなら家繁盛、子孫繁盛のおかげがそこにある訳です。そういう繁盛のおかげをひとつの手本として見本として、金光様の全信奉者がです。そういうおかげをひっさげて私共は世界の平和を願い、世界総氏子の助かりを願ってゆかねばならん。

 いかに金光様の信奉者がひとつ肥えに肥えなければいけないか。繁盛に繁盛のおかげを受けなければならないか。お道の信奉者は世界の田地だと自覚させてもろうて、その信奉者が肥えておらなければ、いうならば大繁盛のおかげを頂いておらなければ、人はついちゃきませんよね。もう言うて聞かせることもいらん。誉めてやることもいらん。それには必ず人がついて来る。金光様の信心すりゃ、あゝいうおかげが受けられるという。そこで初めて世界の田地ということがいえるのじゃないでしょうか。世界の田地が肥えておらなければ、私共信奉者がまず肥えなければ、肥える為には御取次成就信心生活運動が展開されなければならん。

 御取次成就信心生活運動というのは、神様の願いが、この地上になっていくということなんだ。御取次が成就していくということは・・・。神様の願いがこの地上に成就していくということ。その例えば、先駆けを私共が承っておる訳なんです。それには信奉者自身、まず私共の心自体が肥え育っていかなければならん。為には御取次を願い、御取次をひた受けに受けて、御取次を頂き、そして、御取次をひた頂きに頂いて、ひた行じに行じ抜いてゆかなければです。肥えてこないのです、心が・・・。いわゆる神も助かり氏子も立ち行くということになってこないのです。

 先程から、その例の中に申しております、堤清さんが頂かれたというです。山陰山陽の別れ道の所に海があって、その海には徳の舟がそこには浮かんでおる。けれども、あまりにも波が高い。けれども、その海を渡っていかなければ私共の目的は達せられない。その悲願の彼方にある訳なんです。おかげというのは・・・。そのおかげが繁盛である。そこを通らなければです、世界のいわば、女が善うなければ、家がもてぬ。家老が善うなければ城がもてぬ。とおっしゃるように、お道の信奉者が善うなければ、世界のいわば世界の城がもてんのです。

 だからね、ただ、そらごとふうにですかね。ただ、こうやって拝詞を奉唱しておるだけではいけないということです。世界の真の平和を願うなら、世界の総氏子の助かりを願うなら、私共がまず、助からなければならない。そして、世界の田地の自覚を私共が頂いて、その世界の田地である私共がいよいよ肥え太らして頂いて、おかげを受けなければならんということになるわけですね。

 今日は、そこのところのいうら新解釈ですよねえ。これは女だけに下さってあるような感じの御理解でございますけれども、これは女だけでなくて、女は世界の田地とおっしゃるのは、お道の信奉者は世界の田地であると頂いて、そこには、修行第一。女というのは、「くノ一」と説明しましたですね。もう修行にへこたれない。もうすべてを修行として受け抜けれる。修行第一としての信心を教えられておるところの私共が、見事な世界の田地にならして頂こう。という願いがです、たくさんのものが、ここに心を一つにしてです、頂いていくところから、世界真の助かりというか、世界中の平和も、または、世界総氏子の立ち行きもです。そこんところが、私共信奉者の一歩一歩がです、その神様の願いを成就していけれる私達である。また私共である。という自覚に立たしてもろうて、また、責任を感じさせてもろうて、その責任に応えていかねばならんというふうに思うのです。

 どうぞ今日は、御取次成就信心生活運動ということを、ただ今、女は世界の田地だからと、教えて下さる御理解に基づいて、それから立教神伝の最後の金光大神の神頼みという、「世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次助けてやってくれ。」と願うてある、その願いを聞かせて頂くということがです、御取次成就していくことであり、また、それには、私共、信心生活運動というものが、本気で今日の御理解のようなところを元にして、展開してこなければならないということです。  どうぞ